藍よりも青し

農業をテーマにしたブログです。

農業をテーマに
つらつらと書いていきます。






農業の歴史 縄文~奈良時代

日本の農業の歴史にはかなり特徴的な部分があります。

 

 

露地での農業について語るときは、常にその土壌の由来について考えなければなりませんが、そういった点に関しては、まだ農業の現場ではメジャーな情報にはなっていません。

 

 

日本列島は、世界でもまれにみる複雑な土壌がまじりあった地形をしています。

 

火山灰土が積もった黒ボク土、そして粘土質以外にも、砂質、沖積土など、

様々なパターンの土壌があります。

 

 

こうした土壌は、それまでの長い年月をかけた歴史が積み重なってできていますが、

それぞれの土壌においてその特徴は異なります。

 

日本の環境では、温暖多湿という特徴があるため、雨がよく降ります。

この雨が降るというのが曲者で、この降雨によって土壌中のCa(カルシウム)を代表とする成分が雨水と一緒に溶脱して流れて行ってしまうのです。

 

雨が少ない欧米とは違い、この点が日本の土壌の代表的な特徴だと言えます。

なので、新たに外部から投入しなければ、失われた養分を補充することができません。

 

苦土石灰や堆肥などを入れることが、土壌改良という作業に当たります。

 

つまり日本の土壌は、何もないむき出しの状態で、通常では養分が足りない土なのです。

 

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縄文時代の日本

 

このころの人々はまだ農業や牧畜を知らなかったので、

獣や魚・貝・木の実などを獲って暮らしていました。

 

熊や猪、鹿などの大きな獲物を取るときは大勢で出かけていたといいます。

 

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弥生時代の日本

 

弥生時代の遺跡を見ると、青森県でも稲作りが行われていたという事がわかります。

 

米は大体中国南部から東南アジア、インドにかけての地域のどこかが原産地だといわれています。

 

 

本来温かい地域で育つ米を、青森という寒い地域で育てることができていたという事に、

当時の技術力の高さを感じます。

 

 

日本へ伝えられた米作りですが、作るには難しい技術や知識が必要です。

ただ稲が伝わってもすぐ、日本で上手く作られたとは思えません。

おそらく稲と共にかなりの人が日本に来て、その作り方を広めたと考えられます。

 

 

稲を作るには、種蒔きから取り入れまで同じ1つの土地を使います。

 

そのため、鳥や獣・魚などを獲って暮らしていたころのように、

獲物を追って住まいを移す必要はなくなり、1つの土地に長く住みつくようになりました。

 

また、稲を作るのは手数がかかるので、これまでよりも一層、

力を合わせて仕事をすることが必要になりました。

 

こうして人々は村を作り共同生活をするようになってきたのです。

 

 

米は蓄えることができたので、食べ物の心配はこれまでよりも

ずっと少なくなり、人々の生活にゆとりができました。

 

またコメの取れ高が多くなると、皆々がコメ作りに従う必要がなくなってきたので、

土器づくりを専門にする人、農具づくりを専門にする人などが現れてきました。

 

そのため、よい道具ができるようになり、コメの取れ高は一層増えて、

人々の生活はますます豊かになっていきました。

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大和時代の日本

 

大和の社会では支配するものと支配されるものとの違いがはっきりしていました。

 

普通の農民たちは、天皇や豪族たちにしたがってその下で働いており、

政治に口を出すことなどはとてもできませんでした。

 

豪族や皇室はたくさんの田畑を持っていました。

 

その中で皇室が持っていた田畑を屯倉(みやけ)といいます。

 

皇室の田畑なので、作物の良くできる豊かな土地に置かれ、朝廷が地方を治めるための

よりどころにもなりました。

 

大和の国の勢いが盛んになってくると屯倉も各地にたくさん置かれるようになり、関東地方から九州地方にまでも広がりました。

 

屯倉が広がるにつれて、地方を治めるための政治の仕組みも次第に整えられていき、

大和の国は地方の小さな国々を次々に従えて大きな国になったものです。

 

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村人たちが協力し合って生活していた時代から、支配するものとされるものに分かれる

階級制の時代へと変わってきました。

 

その中でも「食」という部分が重要な位置を占めていたことには変わりありません。

 

 

如何に多くの食物を生産し、確保できるか、それはいつの時代においても

大切なこととされていたでしょう。

 

 

飛鳥時代の日本

 

 

 

飛鳥時代の日本は律令による政治が行われていました。

 

地方は、近江とか出雲のような国に分けられ、国の中には郡、郡の中には里が置かれました。

 

国々には、国衙(こくが)という役所がおかれ、国衙のあるところを国府と呼びました。

 

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人々は、すべて良民と賤民に分けられていました。

良民というのは普通の農民以上のもの全部の事で、全人口の約90%は良民だったと考えられています。

残りの10%ばかりが賤民になります。

賤民は、身分が低く一人前の人間として扱ってもらえない哀れな人々でした。

そして、良民と賤民の結婚は、認められませんでした。

 

また、良民と賤民の間に当たるものとして、品部(ともべ)・雑戸(ぞうこ)などがありました。

 

このように、律令の仕組みの中では、身分によって法律上の取り扱いが全く不公平で、

そこが今日と大きく違うところです。

 

農業においては全国の土地がすべて国のものとされていました。

 

6歳以上の農民に土地を与え耕させていました。

 

そのため6年に一度戸籍を作り直し、男には二段(約15アール)、女にはその三分の二の口分田という田を与えました。

 

この土地は人毎に与えられているものであり、その人が亡くなると土地は国に返還されます。

 

この仕組みを班田収授法と呼びます。

 

 

 

 

奈良時代の日本

 

 

飛鳥時代に、大化の改新で決められた班田収授法によって、田は人民に平等に分けられました。

しかし、貴族や大きな寺や神社には、普通の人よりも、はるかに多くの田が与えられました。

 

また、祖・庸・調などで集まった税の中から、多くのコメや布が、貴族や寺に与えられたりで、

貴族たちの生活は次第に派手になりました。

 

朝廷は、都を作ったり大きな寺を建てたり、東北地方の蝦夷や、南九州のハヤトを征伐したりしたため、多くの費用がいるようになってきました。

 

政府は税をもっと多くとるようにしなければならないと考えましたが、人口が増えて口分田が足りなくなりました。

 

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三世一身の法を制定し、新しく溝を掘り水を引いた場合は孫の代まで土地の使用を認め、荒れている池や用水路を直したものは、その一代だけ土地の使用を認めることにしましたが、田の開墾には多くの費用と人手がいるうえ苦労して開墾しても法解の決まりで朝廷に取り上げられてしまうため、田をなかなか開墾しようとしませんでした。

 

 

その後朝廷は、自分の開墾した田は、いつまでも自分のものにしてよいという墾田永年私財法を制定します。

 

 

 

開墾は非常に盛んになりましたが、開墾できる人は開墾に必要な費用、人手などをたくさん持っている貴族や大きな寺などに限られました。

 

また、地方でも有力な豪族の中には、どんどん田を開いて自分のものとし、一層、富み栄える人が増えてきました。

 

 

こうして、貴族や大きな寺は、財力に任せて開墾し、どんどん私有地を広げていきました。

 

これらの私有地が荘園の起こりです。

大きな寺の中には、何千町歩もの荘園をもつものもあらわれました。

 

普通の農民たちは、豪族や寺や神社の田を借りて耕し、暮らしの足しにしなければなりませんでした。

 

今回は縄文から奈良時代までの農業の歴史を見てきました。

 

植物や獣、魚や貝などを獲っていた時代から、作物を育てる時代へ。

 

権力者が現れ、作物を育てる者と納めさせる者へ。

 

そして、田の私物化。

 

時代によって、農業を取り巻く環境が大きく変化してきたことが見て取れます。

 

次回は平安時代の農業から見ていきます。