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藍よりも青し

農業をテーマにしたブログです。

農業をテーマに
つらつらと書いていきます。






私がブログを書く理由。

今週のお題「私がブログを書く理由」

 

記事を書こうとしていたら、今週のお題というものが出てきたので、自分なりに少し書いてみようと思う。

 

ブログを書き始めたきっかけ

私がブログを書き始めたのは、昨年の5月。

 

間もなく1年になる。

 

就職して1年が経ち、たくさんの人と会って、たくさんのものを見てきたけど

岩手の人たちは上手く情報を発信できていない。

私もそう感じていたし、色々な人から情報発信については言われてきた。

 

 

それだったらそこの部分を代わってやれれば良いのでは??

そんな思いからスタートしたプロジェクト

 

 

南部いっぴん堂

 

 

FARMERS MARKET in shizukuishi nagayama

 

 

岩手の匠を紹介して、その商品を全国・海外に販売して行こうとする南部いっぴん堂。

 

雫石長山地域に焦点を当て、地元の農業人を中心に地域を盛り上げ、もっと魅力的な場所づくりを行おうとするFARMERS MARKET。

 

 

どちらも地元に関係していて、岩手を好きなスタッフたちが取り組んでいる。

 

 

昨年から書き始めているのは

『空めぐりの日常。』

というブログ。

 

 

宮澤賢治の『空めぐりの歌』からタイトルを頂いた。

 

会った人やイベント情報を中心に発信している。

 

 

このブログのタイトルは

『青は藍より出でて藍より青し』から取ったもの。

 

農業を中心とした記事を書いていくものだが、

 

私たちが仕事でかかわる農家さんたちは、

代々その土地を受け継いで取り組んできた方々が多い。

 

おじいさんよりもお父さんが、お父さんよりも息子さんが。

 

そんなふうにどんどん知識を深めて、その時代の新しい技術を取り入れて、

地域も成長して行けたらな。そんな想いを込めている。

 

地域に暮らす人たちからしてみれば、私たちは「ヨソモノ」かもしれない。

 

でもヨソモノなりに、地域の人と仲良くしていただいて、

ちょっとずつでも地域を盛り上げる取り組みを作っている。

 

 

これからも地域の人たちと、地域を盛り上げていきたい。

ブログで出来ること

私のブログはまだまだ一方通行で、文章もしっかり書けていないし、

呼んでくれている方にとっては見苦しいものかもしれない。

 

でも、こうやって少しずつでも情報を出していくことで、

興味を持ってくれる人が増えたら、それはとてもうれしいし、

私のブログも役に立ったのかなと思う。

 

 

情報を発信して行って、興味を持ってもらう。

 

それが私のブログで出来ること。

 

そう思っている。

小岩井農場 パート3~

 

前回は宮澤賢治と雫石のかかわりに触れ、春と修羅のパート2までについて述べてきました。

 

今回はその続きから紹介していきたいと思います。

 

 

 

パート3

 

もう入口だ小岩井農場

(いつもの通りだ)

混んだ野ばらやアケビの藪

もの売りキノコ採りお断り申し候

(いつもの通りだ 時機医院もある)

禁猟区 ふん いつもの通りだ


小岩井農場はとても広いので、入口は小岩井駅からさほど遠くはありません。

 

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野ばらやアケビが多い茂り、キノコ採りのために入ってはいけませんと書いてあります。

そして小岩井農場の敷地なので禁猟区になっているのもいつもの通りです。

 

全てが当たり前にある、いつも通りの光景を感じています。

 

 

 

小さな沢と青い木立

沢では水が暗くそして鈍っている

また鉄ゼルのfluorescence

向ふの畑には白樺もある

白樺は好摩から向うですと

いつか俺は羽田県属に言っていた

ここはよっぽど高いから

柳沢つづきの一帯だ

やっぱり好摩にあたるのだ

 

土がゼリー状になって水酸化鉄コロイド溶液が固まって、日光等を浴び

発色している様子を見ています。

 

幹が真っ白で美しいとされる白樺の並木を見ています。

 

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柳沢は滝沢市の地名で、小岩井農場の北端が接しています。

 

好摩は現在盛岡市になっている玉山区の地名です。

 

賢治は好摩と柳沢を重ねていたのでしょう。



どうしたのだこの鳥の声は

なんというたくさんの鳥だ

鳥の小学校に来たようだ

雨のようだし湧いているようだ

居る居る鳥がいっぱいにいる

なんという数だ 鳴く鳴く鳴く

Rondo Capriccioso

ぎゆつくぎゆつくぎゆつく

あの木のしんにも一匹いる

禁猟区のためだ 飛び上がる

(禁猟区のためでない きゆつくぎゆつく)

一匹でない 一群だ

十疋以上だ 弧をつくる

(ぎゆつくぎゆつく)

三またの槍の穂 弧を作る

青光り青光り赤楊の木立

のぼせる位だこの鳥の声

(その音がぼっと低くなる

後ろになってしまったのだ

あるいは注意のリズムのため

両方共だ 鳥の声)


たくさんの鳥が群れて鳴いている様子がわかります。

 

Rondo Capricciosoは気まぐれに何度も同じ様子が繰り返されることを指し、

何度も同じ鳴き声でなく、鳥の様子を表しています。

 

柳の木立の中、ずっと鳴き続ける鳥の声を賢治はついには後ろに聞きます。

 

歩いているうちに群を過ぎた様子がわかります。

 

木立がいつか並樹になった

この設計は飾絵式だ

けれども偶然だから仕方ない

荷馬車がたしか三台止まっている

生な松の丸太がいっぱいに積まれ

陽がいつかこっそり降りてきて

新しいテレピン油の蒸気圧

一台だけが歩いている。

けれどもこれは樹や枝の陰でなくて

しめった黒い腐植質と

石竹いろの花のかけら

桜の並木になったのだ

こんな静かなめまぐるしさ。

 

設計されたように立ち並ぶ木々。

でもそれは設計されたのではなく、自然になったもの。

停まっている荷馬車には丸太がたくさん積まれています。

どこかに出荷されるものでしょう。

 

松などの針葉樹からとれる油はテレピン油と言われます。

切ったばかりの松が日差しを浴びて、香り立つ様子が感じられます。

 

雪が解けて、前の年に枯れた草木が豊かな腐植土となっている様子が見られます。

 

そのような土から桜の並木が育ち、美しく静かな景観を見せています。

この荷馬車には人がついていない

馬は払い下げの立派なハツクニー

脚の揺れるのは年老ったため

(おい ヘングスト しっかりしろよ

三日月みたいな眼つきをして

おまけに涙がいっぱいで

陰気に頭を下げていられると

俺は全くたまらないのだ

威勢よく桃色の舌を噛み ふっと鼻を鳴らせ)

ぜんたい馬の目の中には複雑なレンズがあって

景色やみんな変にうるんで歪に見える…

 

ハツクニーはイギリス原産の馬で、脚を高く上げて歩く姿が美しいとされる

馬車用としては最上級の品種です。

 

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ヘングストとは種馬の事で、しっかりしろよというように呼びかけています。

 

あまり元気がないので、陰気にされていると気持ちが落ち着かないから

威勢よく鼻を鳴らしてほしいと願っています。

 

馬の眼は焦点の合わせ方が人間とは違い、また目の筋肉があまり発達していないため、

焦点のゆがみを利用しながら、顔を動かしピントを合わせています。

 

それ以外の部分は歪んで見えるところを賢治は述べているのでしょう。

 

…馬車挽きはみんなと一緒に

向うの土手の枯草に

腰を下ろして休んでいる

三人赤く笑ってこっちを見

また一人は大股に土手の中を歩き

何か忘れ物でも持ってくるという風…(蜂函の白ペンキ)

桜の木には天狗巣病がたくさんある

天狗巣は早くも青い葉を出し

馬車のラッパが聞こえてくれば

ここがいっぺんにスヰツツルになる

遠くでは鷹がそらを舞っているし

からまつの芽はネクタイピンに欲しいくらいだし

今向うの並木をくらっと青く走っていったのは

(騎手は笑い)赤銅の人馬の徽章(きしょう)だ


馬から離れたところで、馬車挽きが休んでいます。

笑ってこちらを見ています。

 

桜の木には鳥が巣をつくったかのように密集する病気、天狗巣が見られます。

 

そこから新芽が伸び青い葉を見せています。

 

この情景の中で馬車のラッパの音が聞こえてくれば、ここがスイスになると述べています。

 

遠くには鷹が舞い、カラマツの芽はネクタイピンに欲しいくらいピンと伸びていて、

並木を走っていったのは盛岡に創設された騎兵第3旅団の徽章が見えたので、その兵だろうとしています。



パート4

 

本部の気取った建物が

桜やポプラのこっちに立ち

そのさびしい観測台の上に

ロビンソン風力計の小さな腕や

ぐらぐら揺れる風信器を

私はもう見出さない

 さっきの光沢消しの立派な馬車は

 いまごろどこかで忘れたように停まってようし。

 五月の黒いオーヴァコートも

 どの建物かに曲がって行った


小岩井農場本部の建物が、桜やポプラの木々が立ち並ぶ手前に立っています。

そしてその観測台の上には風の強さを図ることのできるロビンソン風力計があります。

 

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小岩井駅で賢治が乗ろうかと迷った馬車はどこか目的地について停まったころだろうし、後ろを歩いていたオーバーを着た男性もどこかの建物に曲がっていき、今は賢治しかいない様子が見られます。

 


冬にはここの凍った池で

子供らがひどく笑った

 (カラマツはとび色の素敵な脚です

  向うに光るのは雲でしょうか粉雪でしょうか

  それとも野原の雪に日が照っているのでしょうか

  氷滑りをやりながら何がそんなにおかしいのです

  お前さんたちのほっぺたは真っ赤ですよ)

葱いろの春の水に

楊の花芽ももうぼやける…

はたけは茶色に掘り起こされ

厩肥(うまやごえ)も四角に積み上げてある

並木桜の天狗巣には

いじらしい小さな緑の旗を出すのもあり

遠くの縮れた雲にかかるのでは

みずみずした鶯色の弱いのもある…


以前冬に訪れたときは凍った池で子供たちが遊んでいました。

 

今はその氷も解け春の訪れを感じられます。

 

柳の若芽も伸び、畑はこれからの種蒔きに供え掘り起こされており、肥料も積み上げられています。

 

天狗巣からも小さく目が伸びていて、遠くの雲にかかる木々は薄い色に見える様子が描かれています。


あんまりひばりが啼きすぎる

  (育馬部と本部との間でさえ

   ひばりやなんか1ダースできかない)

そのキルギル式の逞しい耕地の線が

ぐらぐらの雲に浮かぶこちら

短い素朴な電話柱が

右に曲がり左へ傾きひどく乱れて

曲がり角には一本の青木

  (白樺だろう 楊ではない)

耕耘部へはここから行くのが近い

冬の間だって雪が固まり

馬橇も通って行ったほどだ

  (雪が固くはなかったようだ

   なぜなら橇は雪を上げた

   たしかに酵母の沈殿を

   冴えた気流に吹きあげた)

あの時はきらきらする雪の移動の中を

人は危なっかしいセレナーデを口笛に吹き

往ったり来たり何べんしたかわからない

   (四列の茶色な落葉松)

けれどもあの調子はずれのセレナーデが

風邪やときどきぱっとたつ雪と

どんなに良く釣り合っていたことか

それは雪の日のアイスクリームと同じ

   (もっともそれなら暖炉も真っ赤だろうし

   muscoviteも少しそっぽに灼けるだろうし

   俺たちには見られない贅沢だ)

 

春の訪れを告げるとされるひばりがたくさん啼いています。

 

先ほどからひばりの声を聴いているが、あまりにもその数が多いと賢治は述べています。

 

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前回耕耘部に行ったときには、一本の白樺が生えるところを通って行ったのが近かったと思いだしています。

 

ここで人とされているのは友人でしょうか。

口笛で夜曲を拭きながら何度も何度も同じ場所を行き来しました。

 

調子の外れている夜曲が雪の風景ととても合っていたと思い返しています。

 

雪の日に炬燵でアイスクリームを食べるというのは当時から愛されていたことなのでしょうか。


春のヴァンダイクブラウン

綺麗に畑は耕耘された

雲は今日も白金と白金黒

そのまばゆい明暗の中で

ひばりはしきりに啼いている

  (雲の讃歌と日の軋り)

それから眼をまたあげるなら

灰色なもの走るもの蛇に似たもの 雉子だ

亜鉛鍍金の雉子なのだ

あんまり長い尾を引いてうららかに過ぎれば

もう一疋が飛び降りる

山鳥ではない

  (山鳥ですか? 山で? 夏に?)

歩くのは早い 流れている

オレンジ色の日光の中を

雉子はするする流れている

啼いている

それが雉子の声だ

 


綺麗に耕された畑、太陽の光を受けて白金と白金黒に光る雲のコントラストが賢治の眼を引きます。

その情景の中にひばりの声が響きます。


そこに雉が現れます。岩手の県の鳥ともされる雉は、たくさん見られたことでしょう。

 

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亜鉛鍍金の雉子という表現は亜鉛の化学反応で、鳥が飛び立っているように見える姿からその表現が使われました。


飛び立つとまた違う一羽が舞い降り、そして鳴く。


その様子が、太陽の光の下美しく感じられたことでしょう。


今見晴らす耕地の外れ

向うの青草の高みの4,5本乱れて

なんという気まぐれな桜だろう

みんな桜の幽霊だ

内面はしだれ柳で

鴇色の花をつけている

  (空でひとむらの海綿白金が千切れる)

それらが輝く氷片の懸吊をふみ

青らむ天のうつろの中へ

刀のように突き進み

すべて水色の哀愁を焚き

さびしい反照の偏光を截れ

今日を横切る黒雲は

侏羅や白亜の真っ暗な森林の中

爬虫が険しく歯を鳴らして飛ぶ

その氾濫の水煙から上ったのだ

誰も見ていないその地質時代の林の底を

水は濁ってどんどん流れた


周囲を見渡せる外れに立ちながら、風に揺れる枝垂れ桜を見ています。

 

そして自分の世界に入り込み、ジュラ紀白亜紀の森林の時代を思いながら、そこから脈々と続く生命の流れを感じています。


今こそ俺はさびしくない

たった一人で生きていく

こんな気ままな魂と

誰が一緒に行けようか

大びらにまっすぐに進んで

それでいけないと言うのなら

田舎風のダブルカラなど引き裂いてしまえ

それから先があんまり青黒くなってきたら…

そんな先まで考えないでいい

力いっぱい口笛を吹け

口笛を吹け 陽の錯綜

頼りもない光波のふるい

透き通るものが一列私の後から来る

光り かすれ また歌うように小さな胸を張り

またほのぼのと輝いて笑う

みんな素足の子供らだ

ちらちら瓔珞(ようらく)も揺れているし

めいめい遠くの歌の一くさりづつ

緑金寂静の炎を保ち

これらはあるいは天の鼓手、緊那羅のこどもら

  (五本の透明な桜の木は

   青々とカゲロウを上げる)

私は白い雑嚢をぶら下げて

きままな林務官のように

五月の金色の外光の中で

口笛をふき歩調を踏んで悪いだろうか


そんな脈々とした世界の中、賢治は一人で歩いていきます。


好きな時に好きなように行動したいという思いから、誰が一緒に歩んでいくことが出来ようか、いや誰もできないという反語的な表現が含まれています。

 

自分なりの生き方で、それをとがめるような人がいたら、それには背いていきたいという考えが現れています。

 

先があまりよろしくなくなってきたときのことはその時に考え、今はこのままの生き方でよいのだという考え方が見られます。

 

力いっぱい口笛を吹くとその音に合わせて、透き通る賢治の中の空想の世界の子供たちが小さな胸を張りながら笑っています。

 

仏教の装飾具である瓔珞を身に着けた子供たちは天から来たのか、また音楽の神とされる緊那羅の子供たちであるのかと想いを馳せています。

 

賢治は白い肩掛け鞄をぶら下げ、きままに口笛を吹きながら五月の美しい陽光の中を歩いていきます。


楽しい太陽系の原田

みんな走ったり歌ったり

跳ね上がったりするがいい

  (コロナは83万200…)

あの四月の実習の初めの日

液肥を運ぶ 一日いっぱい

光炎菩薩太陽マヂツクの歌が鳴った

  (コロナは83万400…)

ああ陽光のマヂツクよ

1つの堰を超えるとき

一人が担ぎ棒を渡せば

それは太陽のマヂツクにより

磁石のようにも一人の手に吸い付いた

  (コロナは77万5千…)

どの子どもかが笛を吹いている

それは私に聞こえない

けれども確かに吹いている

  (ぜんたい笛というものは

   きまぐれなひょろひょろの酋長だ)


太陽の光の中、それぞれの子供らに走ったり、歌ったり、好きにするのが良いと心の中で思っています。

 

先月の実習で1日液肥を運んだ時のことを思い出しています。

 

光炎菩薩太陽マヂツクは賢治が太陽を表している表現です。

 

太陽を神聖なものとあがめながら、空想の子供が増えを吹いていて、自分には聞こえないけれども確かにそこにあることを感じています。


道がぐんぐん後から湧き

過ぎてきた方へ畳んでいく

むら気な四本の桜も

記憶のように遠ざかる

楽しい地球の気圏の春だ

みんな歌ったり走ったり

跳ね上がったりするがいい


どんどん道を歩いて進み、色々な景色を通り過ぎていきます。


全てが記憶のように通り過ぎて、春の訪れを感じています。


明るい季節だからこそ、みんな好きに楽しんだらいいと表現しています。

 

パート7

 

鳶色の畑が緩やかに傾斜して

透き通る雨の粒に洗われている

その麓に白い笠の農夫が立ち

つくづくと空の雲を見上げ

今度はゆっくり歩きだす

  (まるで行き疲れた旅人だ)

汽車の時間を尋ねてみよう

ここはぐちゃぐちゃした青い湿地で

もうせんごけも生えている

   (そのうす赤い毛も縮れているし

   どこかのガマの生えた沼地を

   ネー将軍麾下の騎兵の馬が

   沼に一尺ぐらい踏み込んで

   すぱすぱ渉って進軍もした)

雲は白いし農夫は私を待っている

また歩き出す(縮れてぎらぎらの雲)

トッパ―スの雨の高みから

けらを着た女の子が二人来る

シベリヤ風に赤いきれを被り

まっすぐに急いでやってくる

(Miss Robin)働きに来ているのだ

農夫は富士見の飛脚のように

笠をかしげて立って待ち

白い手甲さえはめている、もう20米だから

しばらく歩きださないでくれ

自分だけせっかく待っていても

用がなくては困ると思って

あんなにぐらぐら揺れるのだ

  (青い草穂は去年のだ)

あんなにぐらぐら揺れるのだ

爽やかだし顔も見えるから

ここから話しかけていい

シャッポを取れ(黒い羅沙もぬれ)

この人はもう50ぐらいだ

   (ちょっとお聞き申しあんす

   盛岡行き汽車何時だべす)

   (三時だたべが)

ずいぶん悲しい顔の人だ

博物館の能面にも出ているし

どこかに鷹のきもちもある


畑の麓に立っている農夫が天気を気にしながら空を見上げている様子が見られます。

 

賢治はその農夫に汽車の時間を訪ねようと考えます。

 

そこは湿度の高い湿地で苔が生えるほどです。

 

農夫は賢治が来るのを待っているかのように、ゆったりと行動しています。

 

そんな中小岩井農場に働きに来ているらしき女の子2人が赤い上着を着てまっすぐにやってきます。

二人は急いでいるようです。

 

農夫が笠をかしげている様子や、白い手甲をはめている様子がはっきりとわかり、賢治が農夫へと近づいている様子がわかります。

 

もうすぐだから、行かないでいてほしいという心情も表現されています。

 

近づくと50歳くらいの人だという事がわかります。

こちらの存在にも気付いているし、大丈夫そうだから話しかけようという決心が見られます。

 

盛岡行きの汽車が何時にあるのか尋ね、賢治は会話を終えます。

 

先ほどは爽やかだと思っていましたが、実際は悲しい顔をした人で、

博物館の能面にもみえ、鷹のようなまっすぐの気持ちがあるようにも見えると表現しています。


後ろのつめたく白い空では

本当の鷹がぶうぶう風を截る

雨を落とすその雲母摺りの雲の下

畑に置かれた二台の車

この人はもう行こうとする

白い種子は燕麦(オート)なのだ

   (燕麦(オート)捲ぎすか)

   (あん今向でやってら)

この爺さんは何か向うを畏れている

非常に恐ろしくひどいことが

そっちにあると思っている

そこには馬のつかない厩肥車と

けわしく翔けるねずみ色の雲ばかり

怖がっているのは

やっぱりあの蒼鉛の労働なのか

   (肥やし入れだのすか

   堆肥ど過燐酸どすか) 

   (あんそうす)

   (ずいぶん気持ちのいい処だもな)

   (ふう)

この人は私と話すのを

なにか大変憚っている

 

賢治と農夫が話している後ろでは本物の鷹が風を切っています。

 

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雨を落とす雲の下では、畑に二台の車が置かれています。

 

農夫は話を終えて作業に戻ろうとしています。

 

燕麦を蒔いていることがわかります。

農夫は誰かを気にしながら、話しをしています。

 

賢治から見る限り、そこには厩肥車と雲しか見えません。

 

しかし農夫は何かを気にしています。

 

肥料について話しかければ同意はしてくれるものの、やはり何かを気にしながら話していることを感じています。

 

それは二つの車の横

畑の終わりの天末線(スカイライン)

ぐらぐらの空のこっち側を

少し猫背で背の高い

黒い外套(がいとう)の男が

雨雲に銃を構えて立っている

あの男がどこか気が変で

急に鉄砲をこっちへ向けるのか

あるいはMiss Robinたちのことか

それとも両方一緒なのか

どっちも心配しないでくれ

わたしはどっちも怖くない

やってるやってる空で鳥が

  (あの鳥何て云うす ここらで)

  (ぶどしぎ)

  (ぶどしぎで云うのか)

  (あん 曇るづどよぐ出はら)

からまつの芽の緑玉髄(クリソプレース)

かけていく雲のこっちの射手は

また勿体らしく銃を構える

  (三時の次あ何時だべす)

  (五時だべが ゆぐ知らない)


畑にある二台の車の横は畑の終わりが天末線のように見えます。

 

そこには少し猫背で背の高い黒いコートを着た男性が、銃を空に構えて立っています。

 

賢治はその男性が気が変で、自分や先ほど急いで歩いていった女性たちに銃口が向けられるのではないかと気にしています。

 

空では鳥が鳴いています。

農夫になんという鳥なのか尋ねると、ヤマシギという鳥だと教えてくれます。

空が曇ってくると姿を見せる鳥という事で天気があまり良くないことが見て取れます。

 

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三時の次の汽車は何時かと聞くと五時だとは思うけれど、詳しいことはよくわからないと教えられます。


過燐酸石灰の続く袋

水溶19と書いてある

学校のは15%だ

雨は降るし私の黄色な仕事着もぬれる

遠くの空ではそのぼとしぎどもが

大きく口をあいてビール瓶のようになり

灰色の咽喉の粘膜に風をあて

目覚ましく雨を詠んでいる

少しばかり青いつめ草の交った

枯草と雨のしずくとの上に

菩提樹皮の厚いけらを被って

さっきの娘たちが眠っている

爺さんはもう向うへ行き

射手は肩を怒らして銃を構える

  (ぼどしぎのつめたい発動機は…)

ぼとしぎはぶうぶう鳴り

いったい何を射とうというのだ


そこにある過燐酸石灰の袋には水溶19と書いてあり学校で使っているものよりもリン酸が多いのを見ています。

 

雨は降ってくるし、賢治の着ている黄色い仕事着もぬれてしまいます。

 

遠い空ではヤマシギたちが大きく口を開いて啼いています。

その姿が雨を呼んでいるように見えたのでしょう。

 

青いつめ草が少し交った枯草と雨の雫でぬれた上に、菩提樹の皮で作られた厚い上着を被って、さっきの女の子たちが眠っています。

 

先ほどの農夫のおじいさんは向うへ行ってしまい、銃を構えていた射手はまた銃を構えます。

ヤマシギの鳴き声は相変わらずで、賢治は射手が何を射ようとしているのかわからないとその様子を見ています。


爺さんの言ったほうから

若い農夫がやってくる

顔が赤くて新鮮に太り

セシルローズ型の丸い肩をかがめ

燐酸の空き袋を集めてくる

二つはちゃんと肩に着ている

  (降ってげたごとなさ)

  (なあにすぐ晴れらんす)

火をたいている

赤い焔もちらちら見える

農夫も戻るし私もついて行こう

これらのカラマツの小さな芽を集め

私の童話を飾りたい

一人の娘が綺麗にわらって起き上がる

みんなは明るい雨の中ですうすう眠る

  《うな いい女子だもな》

にわかにそんなに大声に怒鳴り

真っ赤になって石臼のように笑うのは

この人は案外に若いのだ

透き通って火が燃えている

青い炭素の煙も立つ

私も少し当たりたい

  《おらもあたっでもいがべが》

  《いてす さあおあだりやんせ》

  《汽車三時すか》

  (三時四十分 まだ一時にもならないも)

火は雨で帰って燃える

自由射手(フライシュッツ)は銀の空

ぼとしぎどもは鳴らす鳴らす

すっかり濡れた 寒い がたがたする


先ほどの農夫が行ったほうから、今度は若い農夫がやってきます。

 

見るからに健康的で、小太りで丸いイメージをセシルローズと重ねています。

彼は過燐酸石灰の空き袋を集めに来たのでした。

 

農夫が来た方に赤い火が揺れているのが見えました。

彼ももう戻るようなので、賢治もついていくことにします。

 

周りにはカラマツが新芽を伸ばしています。

その美しさに見とれ、自分の物語の中にも飾りたいと考えます。

 

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眠っていた女の子が笑って起き上がります。

 

かわいらしさに賢治も目を止めます。

 

大きな声で笑ったり、大きく笑ったりする様子からその人が思っていたよりも若いのだと賢治は考えます。

 

炎が燃えています。

私も当たっていいですかと、賢治も火に当たらせてもらいます。

 

ここでも汽車の時間を確認し、賢治は改めて自分の体が濡れて冷え切っていたことを感じるのです。


パート9

 

透き通って揺れているのは

さっきの剽悍な四本の桜

私はそれを知っているけれども

眼にははっきり見ていない

確かに私の感官の外で

冷たい雨が注いでいる

  (天の微光に定めなく

  浮かべる意思を我が踏めば

  おおユリア 雫杯とど降りまさり

  カシオぺーアはめぐり行く)

 

賢治は火に当たりながら先ほど見た景色に思いをはせています。

 

先ほど見た桜が揺れているのを知っているけれども、今は眼で見ておらず、でも確かに冷たい雨が降り注いでいるのを感じています。

 

ここでのユリアはジュラ紀から名前を取った空想中の子供の事です。

 

カシオペアは北天に見られる星座で目印としても使われることから、ここでも旅路を思い起こす中で使われているのでしょう。

 

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ユリアが私の左を行く

大きな紺色の瞳をりんと張って

ユリアが私の左を行く

ぺムペルが私の右にいる

…はさっき横へ外れた

あのから松の列のとこから横へ外れた

  《幻想が向うから迫ってくるときは

   もう人間の壊れるときだ》

私ははっきり眼をあいて歩いているのだ

ユリア、ペルペル、私の遠い友達よ

私はずいぶんしばらくぶりで

君たちの大きな真っ白な素足を見た

どんなに私は君たちの昔の足跡を

白亜系の頁岩の古い海岸に求めただろう

  《あんまりひどい幻想だ》

私は何をびくびくしているのだ

どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは

人はみんなきっとこういう事になる

君たちと今日会うことが出来たので

私はこの大きな旅の中の一つづりから

血みどろになって逃げなくてもいいのです

   (ひばりが居るような居ないような

   腐植質から麦が生え

   雨はしきりに降っている)


ユリア、ジュラ紀が左側を行き、ぺムペムはペルム紀は賢治の右側にいると表現されています。

ユリアはフランスの山脈から、ペムペムは化石が発見されたロシアの地名からその名前を取ったとされています。

 

幻想の中にいるのか、現実なのか、自分が感じようと思わずに空想の中にいるときは人間が壊れるときだと賢治は心の中で思っています。

 

自分は眼を開いて、はっきりとした状態で歩いています。

その中でジュラ紀ペルム紀の風景を、しばらくぶりで感じたのです。

でも実際はそこには現代の風景が並んでいるだけ。

賢治の幻想にすぎないのです。

 

自分で何かを畏れ、寂しく感じたので、空想の世界に入ってしまったと思い直しています。

 

今日、ユリアやペムペムを感じることが出来たので、ただ一人でさびしいという思いだけではなかったのでしょう。


そうです、農場のこの辺は

全く不思議に思われます

どうしてか私はここらを

der heilige Punktと

呼びたいような気がします

この冬だって耕耘部まで用事で来て

ここいらの匂いのいい吹雪の中で

何と話に聖いこころもちがして

凍えそうになりながらいつまでもいつまでも

行ったり来たりしていました

さっきもそうです

どのこ子供らですかあの瓔珞(ようらく)をつけた子は

   《そんなことでだまされてはいけない

   違った空間にはいろいろ違ったものがいる

   それに第一さっきからの考えようが

   まるで銅板のようなのに気が付かないか》

雨の中でひばりが鳴いているのです

あなたがたは赤い瑪瑙のとげでいっぱいな野原も

その貝殻のように白く光り

底の平らな大きな素足に乗せて踏むのでしょう


この農場のあたりを賢治は「神聖な場所」と呼びたいような気がすると言っています、

 

冬に耕耘部まで用事で着たときも、吹雪の中を凍えそうになりながらもいつまでも往ったり来たりするなど、この空間では普段と違う行動をしてしまうという事を言っています。

 

空想の中の子供たちをまた思います。そこは現実ではなく異なる空間だと、自分自身に語りかけています。

 

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雨の中でひばりが鳴いています。

赤と白の縞模様の瑪瑙をイメージしているのでしょうか。枯草と土の野原を見ながら、彼らはそこを素足で歩くのだろうとまた空想の世界へ思いを巡らせています。


 もう決定した そっちへ行くな

 これらはみんな正しくない

 今疲れて形を更えたお前の信仰から

 発散して酸えた光の澱だ

 ちいさな自分を画することのできない

 この不可思議な大きな心象宙宇の中で

もしも正しい願いに燃えて

自分と人と万物と一緒に至上福しにいたろうとする

それをある宗教情操とするならば

その願いから砕けまたは疲れ

自分とそれからたったも一つの魂と

完全そして永久にどこまでも一緒に行こうとする

この変態を恋愛という

そしてどこまでもその方向では

決して求めえられないその恋愛の本質的な部分を

無理にもごまかし求め得ようとする

この傾向を性欲という

すべてこれら漸移の中の様々な過程に従って

様々な眼に見えまた見えない生物の種類がある

この命題は可逆的にもまた正しく

私にはあんまり恐ろしいことだ

けれどもいくら恐ろしいといっても

それが本当なら仕方ない


現実と空想の世界へ思いを行ったり来たりしながらも、そちら側の世界へは現実ではないのだから行ってはいけないと自分に言い聞かせています。

 

自分の空想の世界なのか、自分の思考の世界なのか、賢治は自分の内部に入り込み考えをめぐらせていきます。

 

何が正しいのか、目に見えるもの、見えないものそれらの捉え方が恐ろしいと言いながらも、本当の事であれば仕方がないのだとあきらめにも似た気持ちを持っています。


さあはっきり眼をあいて誰にも見え

明確に物理学の法則に従う

これら実在の現象の中から

新しくまっすぐに起て

明るい雨がこんなに楽しく注ぐのに

馬車が行く 馬は濡れて黒い

人は車に立っていく

もう決してさびしくはない

何べんさびしくないと云ったとこで

またさびしくなるのは決まっている

けれどもここはこれでいいのだ

すべて寂しさと悲傷とを焚いて

人は透明な軌道を進む

ラリツクス ラリツクス いよいよ青く

雲はますます縮れてひかり

私はかっきり道を曲がる

 

 

はっきりすべての人に見え、物理的に法則通りにある、これらの実際の現象を感じようとします。

 

雨が楽しげに降り注ぎ、馬車が過ぎ、馬は雨に濡れて黒く光っています。

 

その情景を見ながら、賢治は一人で歩む道程もさびしくないと自分に言い聞かせますが、なんど言い聞かせてもまたさびしくなるのはわかっています。

 

けれども今回はこれでいいのだ、寂しさと悲傷を抱えながらも人は歩んでいると自分に言い聞かせます。それはすべての人に当てはまるのだと。

 

カラマツはいよいよ青く、雲は光り、賢治はまっすぐ進んできた道を曲がります。

 

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詩の最初では自分の内心と、現実に見たものを中心に述べていますが、

途中からは風景と自分の空想の世界を合わせながら述べています。

 

空想の中ではたくさんの子供たちが賢治とともにいますが、現実は一人で歩みを進めています。

 

その中で賢治が感じた孤独感が美しい情景の中描かれています。

 

木々や鳥たち、そしてそこで働く人たちの姿を感じながら実際に小岩井農場へ向かってみるのもいいかもしれませんね。

 

賢治が愛した風景を感じてください。

 

宮澤賢治と雫石 春と修羅~小岩井農場~

岩手県の詩人・童話作家である宮澤賢治

 

 

 

 

彼は幾度となく雫石を訪れています。

 

とりわけ明治時代にオープンした民間農場である

小岩井農場の西洋的の建物も賢治を魅了しました。

 

 

 

 

 

宮澤賢治が初めて雫石を訪れたのは盛岡中学時代でした。

 

岩手山から望む雫石の風景、小岩井農場で感じた四季の移ろいは、賢治の豊かな創造力を呼び起こし、数々の作品に登場します。

まさしく雫石の風景こそ、理想郷イーハトーヴの原風景といえましょう。

 

 

 

 

 

初めての岩手山登山


 

 

 

賢治が幼少の頃から鉱石採集が好きで、「石っこ賢さん」と呼ばれたことはあまりにも有名ですが、親元を離れ盛岡中学に進んだ賢治の目は、当然のごとく近郊の山野にそそがれていました。 

賢治は1910年中学2年の秋、学校の「植物採集岩手山登山」に参加し、初めて岩手山に登ります。

その時の情景が深く印象に残ったのか、同じ年の9月には同級生とともに再び岩手山を目指します。

柳沢から上り山頂を極め、御釜噴火口、御苗代を経て網張温泉に下山。

翌日小岩井農場を見学して後、盛岡に戻りました。

その後賢治は、盛岡高等農林学校、そして稗貫農学校(現、花巻農学校)の教員時代を含め、

数十回にも及び岩手山に登りました。岩手山から見た雫石地域の風景は、賢治の脳裏に深く焼きついていたことでしょう。

 

 

 

 

小岩井農場への遠足

 


 

 

 

中学3年の5月、賢治は遠足で小岩井農場を訪れます。

小岩井農場は、3000ヘクタールの広さを誇る我が国唯一の民間総合農場で、その雄大さは賢治も「牧場の標本」と評したほど。

農場の北欧風のサイロなどの建物も、賢治の好奇心を刺激しました。

賢治の作品には、時折り西洋風の街や建物が登場するが、こんなところから生まれてきたのかもしれません。

賢治は、その後も繰り返し小岩井農場を訪れる。周囲には童話の舞台となった狼森や笊森が続いていて、農場や森の中に自然の営みを体験した賢治は、自然の素晴らしさと大切さを心の中に刻んでいきます。

 

 

 

 

高等農林御明神演習林と経済農場の存在

 


 

 

雫石の御明神には、盛岡高等農林付属の演習林と経済農場があり、果樹や畜産、林業の実習教育が行われていました。

高等農林に進んだ賢治も、実習のためたびたび通うこととなります。

当時、現地までの交通はすべて徒歩。

好奇心旺盛な賢治のこと、途中森や川に分け入り、植物や鉱石を見つけては道草をしていたに違いありません。

賢治は道々で山や里の景色をながめ、文学的な環境をいっそう募らせていきます。

賢治の詩や歌に、雫石の地名が多く登場するもの、そのためだと考えられています。

 

 

 

秋田街道、青春夜行

 


 

 

高等農林3年の夏、賢治は文学愛好の仲間と同人誌「アザリア」を発刊します。

作品の合評会の後興奮冷めやらぬ賢治は、仲間3人と深夜秋田街道(現、国道46号)を歩き出します。

この若さゆえさすらいの旅は、賢治と雫石のかかわりと決定的なものにしました。

賢治の処女詩集は「春と修羅」。

その冒頭を飾るのは街道筋に望む。

七つ森を詠んだ「屈折率」でした。

雫石の情景が、いかに賢治の心に焼きついていたか。

そんな思いを強く感じられるできごとだと言えます。

 

 

 

 

屈折率

七つ森のこっちのひとつが

水の中よりもっと明るく

そしてたいへん巨きいのに

わたくしはでこぼこ凍ったみちをふみ

このでこぼこの雪をふみ

向ふの縮れた亜鉛の雲へ

陰気な郵便脚夫のやうに

(またアラッディン、洋燈とり)

急がなければならないのか

 

 

 

 

雫石の七つ森の情景を眺めながら、凍った冬の道を進む。

 

そんな賢治の様子を見て取ることが出来ます。

 

 

 

 

宮澤賢治の処女詩集「春と修羅」に描かれた小岩井農場

賢治が小岩井駅に降り立ち、小岩井農場へ向かう様子が鮮明に見て取れます。

 

 

 

 

 

小岩井農場

 

パート1

 

 

私はずいぶん素早く汽車から降りた

そのために雲がぎらっと光ったくらいだ

けれどももっと早い人はある

化学の並川さんによく似た人だ

あのオリーブの背広などはそっくり大人しい農学士だ

さっき盛岡の停車場でも

確かに私はそう思っていた

この人が砂糖水の中の

冷たく明るい待合室から

一足出るとき…私も出る

 


花巻農学校に勤めていた賢治は盛岡から橋場線に乗り換えて

小岩井駅で下車します。

賢治は一番乗り位の早さで下車しますが、もっと早い人がいました。

 


馬車が一台立っている

馭者が一言何か言う

黒塗りの素敵な馬車だ

光沢消しだ

馬も上等のハツクニー

この人はかすかに頷き

それから自分という小さな荷物を

載っけるという気軽な風で

馬車に登って腰かける

(僅かの光の交錯だ)

その陽の当たった背中が

すこし屈んでしんとしている

私は歩いて馬と並ぶ

これはあるいは客馬車だ

どうも農場のらしくない

私にも乗れと言えばいい

馭者が横から呼べばいい

乗らなくたって良いのだが

これから五里も歩くのだし

倉掛山の下あたりで

ゆっくり時間も欲しいのだ

 


そしてその男性は馬車に乗ります。

その様子を見て賢治も自分も乗りたいと考えます。


私にも乗れと馭者に声をかけてほしいという心情が描かれています。


これから小岩井農場まで歩いて行くとなると約20キロの道のりを歩かなければなりません。

ゆっくりと詩について考える時間を取りたいと思っています。



あそこなら空気もひどく明瞭で

樹でも草でもみんな幻燈だ

もちろん翁草も咲いているし

野原は黒葡萄酒のコップも並べて

私を歓待するだろう

そこでゆっくりとどまるために

本部まででも乗ったほうがいい

今日なら私だって

馬車に乗れないわけではない

(曖昧な思惟の蛍光

きっといつでもこうなのだ)

もう馬車が動いている

(これが実にいいことだ

どうしようか考えている暇に

それが過ぎて滅くなるということ)

ひらっと私を通り越す

道は真っ黒の腐葉土

雨上がりだし弾力もある

馬はピンと耳を立て

その端は向こうの青い光に尖り

いかにも気さくに馳けて行く

後からはもう誰も来ないのか

 


結局馬車は賢治を置いて動き出します。

上等のハクニーと描かれる馬はイギリス原産で、当時の小岩井農場の西洋風の雰囲気を感じさせます。

脚を高く上げて馬車を引く様子がとても優雅な馬とされており、その馬が黒塗りの美しい馬車を引く様子は、賢治の心をひきつけるものであったでしょう。

 


~~~~

 

 

汽車から降りた人たちは

さっきたくさんあったのだが

みんな丘かげの茶褐部落や

繋あたりへ往くらしい

西に曲がって見えなくなった

 


 

 

小岩井駅にはこの春と修羅の一説が描かれた歌碑があります。

 

賢治が出発点とした小岩井農場は、時がたった今でも同時の姿のまま佇んでいます。

 

 

 

今私は歩測の時のよう

新開地風の建物は

みんな後ろに片附けた

そしてこここそ畑になっている

黒馬が二ひき汗でぬれ

犁を引いて往ったりきたりする

鶸色(ひわいろ)の柔らかな山のこっち側だ

山では不思議に風が吹いている

若葉が様々に翻る

ずうっと遠くの暗いところでは

鶯もごろごろ啼いている

その透明な群青の鶯が

(本当の鶯の方はドイツ読本の

ハンスが鶯でないよと云った)

 

 

 

小岩井駅の周辺にあった建物も後ろに通り過ぎ、賢治の周りを畑が囲みます。

農耕馬が犂を引き、畑を耕している様子がわかります。

若葉が芽を出していて、生命の息吹を感じさせます。

 

 

 

馬車はずんずん遠くなる

大きく揺れるし跳ね上がる

紳士も軽く跳ね上がる

この人はもうよほど世間をわたり

今は青黒い淵のようなとこへ

すまして腰かけている人なのだ

そしてずんずん遠くなる

 

 

 

先ほどの馬車に乗った紳士はどんどん先へと進んでいきます。

たくさんの世間を見て、色々なことを客観的に見ている人だと表現しているのでしょうか。

 

 

 

~~~~

 

 

冬に来た時とはまるで別だ

みんなすっかり変わっている

変わったとはいえそれは雪が往き

雲が展けて土が呼吸し

幹や芽のなかに燐光や樹液が流れ

白い春になっただけだ

それよりもこんなせわしい心象の明滅を連ね

速やかな速やかな万法流転の中に

小岩井の綺麗な野原や牧場の標本が

いかにも確かに継起するという事が

どんなに新鮮な奇跡だろう

本当にこの道をこの前往くときは

空気がひどく稠密で

冷たくそして明る過ぎた

今日は七ツ森は一面の枯草

松木がおかしな緑褐に

丘の後ろと麓に生えて

大変陰鬱に古びて見える

 

 

 

冬に訪れたときと、現在の小岩井の景色を見比べ、その違いに驚いています。

雪が解け、新たな生命を感じさせる春が訪れただけだと賢治もわかっていますが、

その様子が奇跡的だと感じています。

 

七ツ森は雪が解けて前の年に生命を終えた枯草がその姿を見せています。

それが大変古びてみてるとしています。

 

 

 

 

パート2

 

 

 

たむぼりん(遠雷)も遠くの空で鳴っているし

雨は今日は大丈夫降らない

しかし馬車も早いと云ったところで

そんなに素敵なわけではない

今までたってやっとあそこまで

ここからあそこまでのこのまっすぐな

火山灰の道の分だけ行ったのだ

あそこはちょうど曲り目で

すがれの草穂も揺れている

(山は青い雲でいっぱい光っているし

馳けて行く馬車は黒くて立派だ)

 

 

 

遠雷が遠くで鳴っているのを聞きながら雨は降らないだろうと天気を気にしています。

 

 

先ほどの馬車に乗らなかったことを気にしながらも、

馬車もそんなに早いわけではないと自分の行動を肯定しようとしています。

やはり馬車の立派さは賢治の心を引くものであったのでしょう。

 

 

 

ひばり ひばり

銀の微塵の散らばる空へ

たった今昇ったひばりなのだ

黒くて素早く金色だ

空でやるBrownian movement

おまけにあいつの翅ときたら

甲虫のように四枚ある

飴色のやつと硬い漆塗りの方と

たしかに二重に持っている

よほど上手に鳴いている

空の光を呑みこんでいる

光波のために溺れている

もちろんずっと遠くでは

もっとたくさん鳴いている

そいつの方は背景だ

向うからはこっちのやつがひどく勇敢に見える

 

 

 

空を舞うひばりの声を聴きながら空を眺めています。

 

 

遠くにはもっとたくさんのひばりが鳴いていますが、

自分の近くにいるひばりの方が向うのひばりからは勇敢に見えるだろうと述べています。

 

 

 

後ろから五月の今頃

黒い長いオーヴァを着た

医者らしいものがやってくる

度々こっちを見ているようだ

それは一本道を行くときに

ごくありふれたことなのだ

冬にもやっぱりこんな塩梅に

黒いイムバネスがやってきて

本部へはこれでいいんですかと

遠くから言葉の浮標を投げつけた

凸凹の雪道を

かろうじて咀嚼するという風に歩きながら

本部へはこれでいいんですかと

心細そうに聞いたのだ

俺はぶっきらぼうにああといっただけなので

ちょうどそれだけ大変かわいそうな気がした

今日のはもっと遠くから来る

 

 

 

賢治の後ろから5月なのにも関わらずオーバーを着た医者に見える人がやってきます。

 

時々賢治の様子を気にしながら歩いてきています。

 

まっすぐな一本道を行くとき、その光景は当たり前だと感じながらも

冬に小岩井農場を訪れたときの様子を思い出しています。

 

その時も同じように黒いイムネバスコートを着た人が、本部へ行く道はこれでいいのですかと

心細そうに聞いてきたことを思い出します。

まっすぐな何もない雪景色の道。彼はとても不安だったことでしょう。

 

賢治はそのときの自身の対応が冷たかったと思い、かわいそうに感じています。

 

今日のオーバーを着た男性はその時の男性よりもっと遠くにいることがわかります。

 

 

 

 

 

自身の心象・情景を交えながら書かれた詩で、賢治の見た景色を想像しながら読むことが出来ます。

 

これを見ると賢治の詩に沿って小岩井農場への道のりを歩いてみたくなりますね。

 

 

 

 

 

 

パート3以降についてはまた次回紹介していきます。

 

 

 

農業の歴史 明治時代~昭和時代

明治時代の農業

 

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政府が政治の仕組みを改めたり、新しい産業を興したりするためにはたくさんのお金がかかります。
そのうちの90%は農民が納めている年貢で賄われていました。
新しい政府になっても江戸時代と同じ、米で納めるという方法で年貢を納めていました。


運ぶにも手間がかかり、米の取れ高によって政府の収入も変動します。

それでは計画を立てて政治をすることが出来なかったため、新しい税の仕組みを作らなければならないと考えました。


その頃、ヨーロッパの進んだ国ではもう、年貢のような税はやめお金で納める税金になっていました。

税を、お金で払うためには農民が自分で作ったものを自由に売ることが出来なくてはなりません。

また、お金を得るために有利な作物をなんでも作れるようにしなければなりません。

そこで政府は、まず農民は何でも作りたいものを作ってよいということにしました。

次には、土地を自由に売ったり買ったりしてもよい、という事にしました。

土地を買ったものには、地券が渡されこれを持っているものが土地の持ち主です。

初めて、土地は大名のものから農民のものとなったのです。



政府は、いろいろと外国の税の仕組みを調べた上1873年、次にあげた新しい税の決まりを立てました。

(1)これまでの年貢はコメの取れ高で決められていたが、これからは土地の値段を決め、
土地の値段を元にして決める。この税の事を地租といいました。

(2)米のとれ高は多くても、少なくても地租は土地の値段の3%とする。

(3)今まで米などで納めていた税をお金で納めることにする。

(4)今までの税は耕している人が納めていたがこれからは土地の持ち主である地主が納めることにする。

こうして、お金で納める地租が決められたのです。



しかし小作人は、やはり地主に高い小作料を米で納めなければなりません。

この米を地主が金に替えて税金にしました。地主にしても新しい地租には不満でした。

土地の値段の3%というのは江戸時代の四公六民と同じくらいの割合でした。
ですから、地租が改められたからと言って農民の暮らしが楽になったわけではありません。


江戸時代の農民の暮らしは少しも変わらなかったので、新しい政府に期待していた農民たちは、
地租の改正に反対してあちこちで、騒動を起こしました。


旧体制下の支配階級であった武士は制度の変更によって完全に失業することになり、失業対策としての開墾が政府により推進されました。

明治初期の耕地開発は、失業士族の緊急開拓を契機に耕地の開発を近代国家の施策として展開し、これはさらに北海道の屯田開拓に引き継がれました。
明治政府が誕生した後の明治2年、北海道札幌に開拓使が置かれます。これは、北辺警備と北海道の開発が主要なねらいで、これを機に、各地から開拓者が新天地を求めて、北海道へ渡りました。

当時の北海道開拓では、広い植民区画と散居村落のうえで家畜を使った欧米式の畑作農業が進められました。
しかし、当時の開拓農民の米に対する執念は強く、品種改良と共に、泥炭地や火山灰地など
北海道特有の土地の改良と水利施設の建築が進み、さらに稲の栽培技術も改良された結果、
爆発的な勢いで稲作が拡張していきました。

日本人のお米に対する思い入れを感じさせられます。
もともと温かい地域原産の稲を品種改良を進め、北へ北へと生産地を広げていったことは、その思いの強さゆえだと感じることが出来ます。


政府による開発体制の整備
明治12年には、国の直轄事業による安積疎水事業が着工され、明治用水事業もこの年に始まりました。

これらの事業によって、明治期の約40年間に、67万町歩(約67万ha,20億1千坪)の開墾開畑が行われ・耕地面積は急速に拡大していきます。
これは明治維新に至る江戸期の約180年間で約152万町歩(約152万ha,45億6千坪)の増加を見たのに対して、約2倍の伸びを示しています。

江戸時代では年あたり8444haの開墾であったのに対し、明治時代では年あたり16750haの土地が開墾されていました。

このような耕地の開発や用排水の改良設備の急激な展開を可能にしたものは、従来の伝統的な農業土木の技術に加え、セメント・ポンプ・ダイナマイトに代表される欧米の最新土木技術の積極的な導入がありました。


明治農法は、言ってみれば農業の工業的展開と言えました。

明治維新以来増え続ける人口と、生活向上による食糧需要増を賄うために、米を始めとする諸産物の大増産をはかり、食糧供給を安定化するという目的で行われた「上からの農業改革」でした。

その具体的な内容として考えられたのが、まず土地の利用率を上げて食糧供給力を上げることです。

灌漑排水技術を導入して田んぼを「乾田化」し、表作として稲、裏作として大麦や小麦などを植えて土地の利用率を上げ、食糧生産の量的増大を図ります。

もちろん土地の利用率が上がれば当然土中からミネラルなどの流出が増えて地力が落ちるから、
その分を家畜の下肥や金肥(満州からの大豆かすや魚肥を買う)で補いました。

次に考えられたのが、単位面積当たりの収穫量(反収)を増やし食糧生産を効率的に増やすことでした。

田畑に今まで以上にたくさん肥料を投入し、コメや小麦をよりたくさん生産しようという試みですが、肥料を大量に投入すると、作物はひょろ長くなったり倒伏して腐ってしまったりします。

雑草や害虫も増えるし、病気も流行りやすくなります。
だから反収増が望めてかつ背の高くならない品種、肥料をたくさん与えても腐らない品種を
老農たちが選定し、それを導入しました。

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そしてまた田植えも縦横の間隔を農民が入って作業しやすい間隔に植える「正条植え」にするように指導し、雑草取りや害虫の発生を抑えるように農民に強制しました。

苗も強い苗を育てるために、一番良い土地を苗代として使って作るように強制し、それらを警察の監視のもとに行っていました。

最後に、収量の安定化を図る為に、土地を深く掘り返せる犂を開発しそれを馬で引いて耕筰を行うという馬耕の導入を推奨しました。深く掘り返された土地は冷害などの被害に強くなると言われていたためです。しかし、残念ながら馬耕は、無蓄農業を基本とする日本の小農業にはそぐわず、あまりうまくはいきませんでした。


そういったわけで「明治農法」は、日本の農業の問題点である「浅耕(深く耕さない)・排水不良(排水が良くない)・小肥(肥料が少ない)」の3つうち「排水不良」と「小肥」の2つの問題を解決し、確かに農業の生産性を上げるのに役立ちました。
しかしそれは見方を変えると、従来のむら的共同体農業を破壊し、農業生産に資本を投下できるものが栄え、できないものが衰退するという農民の二極化を促すものでありました。

そういったわけで「明治農法」は日本農業の問題点である「浅耕・排水不良・少肥(深く耕さない・排水が良くない・肥料が少ない)」の三つのうちを解決し、確かに農業の生産性を上げるのに役立ちました。
がしかしそれは見方を変えると従来のむら的共同体農業を破壊し、農業生産に資本を投下できるものが栄え、できないものが衰退するという農民の二極化を促すものでありました。

大正・昭和時代の農業

 

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大正時代の農業

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昭和時代の農業

明治維新以来50年間における資本主義の巨大な発達は、さらに第一次世界大戦に当面して更に飛躍的な発展をとげました。
第一次世界大戦中及び戦後の発展は実に未曾有のものでした。
従って、日清・日露戦争時代に近代工業の従属的地位に引き下げられた農業は、今や決定的に従属的なものになりました。

日本の農業生産は日露戦役後、僅少のものにおいては著しく発達しましたが、多くのものについては停滞域は衰退傾向を表しています。しかし、価格の面においては著しい騰貴を見ています。

耕地面積は全体として大正10年(1921年)に最高に達して以来、一進一退しつつも減少の傾向を示しています。農業戸数も大正9年(1920年)を境にジグザグに減少し、昭和以降増加し始めました。
個々の農産物の動きをみると、大正8、9年(1919~1920年)に一応の最高作付面積に達した小麦、甘藷、馬鈴薯の発達は第一次世界大戦の影響によるもので、それらは第二次世界大戦のときも再び最高を示していますが、日本の農作物の動きをみると、第一次世界大戦後(1945年)に大体最高に達しています。


米と蔬菜(そさい)および花卉などのみ昭和10年ごろまで発展し続けるだけです。
反当生産額も大正8年(1919年)ごろを頂点として以降は多く減少しています。
かくして日本の農業は未曾有の繁栄を来しましたが、この繁栄は必然的に農業の商品化の線に沿ってからのことでした。

今や農家は自家消費のためにのみ生産するのでなく、むしろ商品生産を中心とし市場を目的とする作物への転換がなされるに至りました。養蚕に続く蔬菜園芸の隆盛は如実にこれを物語っています。

大正より昭和にかけて農作物の大転換が進み、農業経済の商業化はかなり著しいものとなりました。
農業技術面における機械化、化学肥料の消費増大、品種の改良等はかかる時代的環境のもとに
急速な発展を示しました。

昭和になってからは、農業の商品化がうかがわれ、養蚕業に続く畑地の蔬菜栽培時代は戦中戦後にかけて急激に勃興し、生産物は様々な地域へと販売されていきました。


農地改革
第二次世界大戦の直前に「農地開発法」が制定され、食糧増産のための農地拡大が進められました。また昭和20(1945)年に「緊急開拓事業実施要領」制定、昭和21(1946)~25(1950)年の農地改革により、農地が地主から収用され、自作農の創設が図られました。

農地の所有が細分化され、農業の担い手は農地を借りて耕す小作農から、自分の土地を自分で耕す自作農に移りました。
昭和36(1961)年の「農業基本法」によって、事業の目的が農地拡大から生産性を上げるための圃場整備などの事業に移り、農業用水の確保のための大規模なダム建設も進められました。


土地改良
農業の基盤整備に加え稲の品質改良が進んだこともあって、米の生産量は向上しましたが、1970年代に入ると、日本人の食生活の変化によって米の消費量が減り、作付面積を減らして生産調整を行う「減反政策」が始まりました。

高度経済成長の中で、都市圏の拡大と人口の都市集中に伴い、宅地や工業用地などの需要が急速に拡大したことから、農業用地が工場・道路・宅地などに転用されるようになりました。
既成市街地内部の地価が高騰するにつれて、都市近郊の土地需要は木急増しました。
耕地を中心とした土地利用の転換も急速に増加していた時代でした。



昭和農業恐慌
1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて深刻だった大不況(昭和恐慌)の農業および農村における展開の事を昭和農業恐慌といいます。

昭和恐慌で、とりわけ大きな打撃を受けたのは農村でした。世界恐慌によるアメリカ合衆国国民の窮乏化により、生糸の対米輸出が激減したことによる生糸価格の暴落を導火線とし、他の農産物も次々と価格が崩落していきました。
井上準之助大蔵大臣のデフレ政策と1930年(昭和5年)の豊作による米価下落により、農業恐慌は本格化しました。

1930年は農村では日本史上初といわれる「豊作飢饉」が生じました。
豊作飢饉とは、豊作であるにもかかわらず、作物価格の下落などで飢饉時と同様に農家収入が大幅に減少することをいいます。
米価下落の原因には朝鮮や台湾からの安価な米が流入した影響もあったといわれています。
農村は壊滅的な打撃を受けました。当時、米と繭の日本柱で成り立っていた日本の農村は、
その両方の収入減を絶たれるありさまでした。



翌1931年(昭和6年)には一転して東北地方・北海道地方が冷害により大凶作に見舞われました。
不況のために兼業の機会も少なくなっていた上に、都市の失業者が帰農したため、東北地方を中心に農家経済は疲弊し、飢餓などの窮乏に陥り、貧窮のあまり東北地方や長野県では青田売りが横行して欠食児童や女子の身売りが深刻な問題となっていました。
小学校教員の給与不払い問題も起こったり、穀倉地帯と呼ばれる地域を中心に小作協議が激化するなどの問題も起こりました。

1933年(昭和8年)以降景気は回復局面に入りましたが、1933年初頭に昭和三陸津波が起こり、東北地方の太平洋沿岸部は甚大な被害を被りました。
また、1934年(昭和9年)は記録的な大凶作となって農村経済の苦境はその後も続きました。

農作物価格が恐慌前年の価格に回復するのは1935年(昭和10年)のことでした。



農業就業人口の急減
都市化の進展の中での農業におけるもっとも大きな変化は、農家人口及び農業就業人口の急速な減少でした。
この10年間に全国の農家数は11.8%減、農家人口は23.9%の減となりましたが、農業就業人口もほど同じ期間に23.6%の著しい減少をしめしました。
また、1農家当たり世帯員のなかの就業者のうち、農業就業者の割合は低下し、非農業への就業者は増大しています。
これらは、農村の人口が全体として減少しているばかりでなく、農家に住みながら近隣都市に通勤する人が、全国的に増えている傾向を反映したものです。

もちろん都市化による農家人口の移動の影響は、農村と都市との距離、交通体系の整備の度合、
近隣工場の雇用吸収力など、地域によってかなり異なっています。
都市化の影響が強く表れているのは、南関東など大都市近郊農業地帯です。
この地域の農家人口比率および農業就業人口比率は、現在13.4%および9.9%に低下していて、全国平均の25.3%および20.5%を著しく下回っています。

これに対して東北などの遠隔農業地帯や、北関東などの中間農業地帯では、農業就業人口の減少テンポは大きいものの、農業就業人口比率そのものはまだかなり高くなっています。



農業生産の変化
経済発展の中で国内純生産に占める農業純生産の割合は、昭和35年(1960年)度の10.2%から44年度の6.6%に低下していますが、多様化・高級化する国民の需要に対応して、弾力的・安定的な食糧供給者としての農業の役割はきわめて重要でした。
35~44年(1960~1969年)間の農業生産は年率2.9%の増加で、作物別には米が生産過剰となりましたが、畜産、果実、野菜などの成長的農産物の生産はかなりの増大を示しました。

都市化があたえているいまひとつ重要な変化は、農業労働力に対する評価の高まりでした。
農業労働力の都市への流出を反映して、農業労働賃金はこの10年間に年率にして15.3%もの上昇となりました。
農業県での賃金レベルは大都市近郊県に比べるとまだ低いとされていましたが、賃金上昇率としてはこれを上回る高さを示しているものもありました。

農家生活様式の都市化
都市化の波を受けて、農家生活も変容を示しました。
第一の変化は、農家世帯員数の減少で、これは、都市化社会の中の核家族化の進行と表裏した動きになっていました。

第二は、農家世帯員の中でも通勤兼業者が増えたことです。
特に都市近郊農家にこの傾向が強くみられました。
このような世帯内の就業形態の変化は、当然のことながら、農家の所得源泉の変化となって表れました。

全国平均の農家所得は、37~44年度にかけて年率13.2%の増加を示しましたが、この農家所得増加のうちの64.2%までは農外所得の増大によってもたらされたものです。
つまり、外部に働きに出たからこそ、農家の収入が増えて見えたのです。
これは農業そのものが発展したとは言えないでしょう。

地域別にみると、大都市近郊ほど農外所得によって得られた所得が多いとされ、働く場がたくさんあったという事を意味しています。
昔は、農外所得は農家にとって農閑期の家計補助的なものが大部分でしたが、いまでは、農外所得が農家所得の大きな部分となっているのです。



都市化による農業および農村の変化が、もっとも鋭く、しかも集中的に表れ、様相が変わってしまったのが都市に組み込まれた農村でした。

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従来、野菜などの有力な供給地であった大都市近郊農村の多くはベッドタウンとなり、人口の急速な増加の中で農家、農地、農業就業者は急減し、また、村落共同体的な結びつきも弱まっていました。
これら、都市圏に組み込まれた地帯では、従来の農村社会が分解し、新しいコミュニティが秩序づくられていきました。

こうした中で、農業生産も従来の水利用などを中心とした地縁共同体的な形のものは崩れ、
それに代わって点在的な都市農業経営が行われるようになっていくのです。
そこでは、耕地規模の拡大よりも資本投下による生産性の上昇が図られていましたが、
市場に近いという地理的有利性などをいかに発揮するかが大きな課題となりました。




明治から昭和にかけての農業の流れを見てきました。

大名のものとされていた土地が小作人のものになったり、税の納め方が変化するなど大きな変革を見せた明治時代。
「明治農法」は、日本の農業の問題点である「浅耕(深く耕さない)・排水不良(排水が良くない)・小肥(肥料が少ない)」の3つうち「排水不良」と「小肥」の2つの問題を解決し、確かに農業の生産性を上げるのに役立ちました。

大正・昭和の農業については、戦争の影響による需要の増大、都市化に伴う兼業農家の増加など大きな変化を見せてきました。

現在、日本の人口の3%に満たない約260万人(2010年10月)の農民が日本の食料の大半を支えています。
農業従事者の平均年齢は65.8歳,35歳未満は5%との数字が示すように後継者不足もあって,
埼玉県と同じ面積の耕作放棄地が広がっています。

さらに農家1戸当たりの農地面積は2007年でEUの9分の1,アメリカの99分の1,オーストラリアの1862分の1と,耕作面積の極端な狭さが,生産性を引き下げる一因となっています。


今後TPPによる関税撤廃など、農業を取り巻く環境は大きく変化しようとしています。

こだわりを持って作り続けている農家さんが、販売の場を奪われないように、
私たちは自分たちの生活の基本である「食」についてもっと考えていかなければならないと言えるでしょう。

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農業の歴史 平安~江戸時代

平安時代の日本

 

 

奈良時代の中ごろに墾田永年私財法が制定され、田畑をを子孫に伝えることを認めたので、土地の開墾は非常に盛んになりました。

 

しかし、荒地や原野を開いて田畑にするには、たくさんの人手や道具など、多くの費用がいるため、広い土地を開くことができたのは、多くの財産を持っている貴族や寺に限られていました。

 

こうして貴族や寺の田はどんどん増えていきました。

政治の立て直しに努力した桓武天皇も貴族や寺がたくさんの土地を独り占めすることを止めることはできませんでした、

その上、班田収授法も次第に行われなくなり、口分田がそのまま国に帰らず、農民のものになることもありました。

 

貴族や大きな寺は、新しい土地を開墾するばかりでなく、貧しい農民から区分田を買い上げたりしてますます、自分の土地を広げていきました。

 

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こうして、貴族や寺の土地は遠い地方にまで広がりました。

これらの遠い地方の土地には、そこに事務所や倉を置きました。

そして、農具を置いたり、土地を開くための事務をしたり、採れた稲などの保管をしたりしました。

 

こうした事務所や倉を荘と呼びましたが、この名がいつの間にか土地そのものの呼び名となり、

のちに荘園と呼ばれるようになったのです。

 

広い土地を開いたのは、都の貴族や寺ばかりではありません。

地方にも、古くからの勢いの強い人々がいて、広い土地を開いたり、貧しい農民から土地を買い集めて多くの土地を自分のものにしたのです。

 

荘園に土地を売った農民たちは、小作人となり、そこで働きました。

 

新しく開いた土地にも租税はかかります。

しかし、それでは自分の収入がそれだけ減ってしまいます。

 

朝廷に租税がかからないように交渉すると、朝廷としても国の収入が減るので困ります。

 

それでも寺や神社の土地は、神や仏が怖かったのか簡単に租税を免除しました。

 

それに習って貴族たちも自身の勢いに任せて、租税を納めないようになりました。

租税を取り立てる地方の役人も、貴族に逆らうと役人を辞めさせられる心配があるので、法律に背いているとはしりながら、租税の取り立てをしませんでした。

 

これを見て、土地を持っている地方の人も、租税を逃れるため勢いの強い貴族や寺へ自分の土地を寄付するようになりました。

 

貴族や寺は、たくさんの荘園を、全部自分で世話したわけではありません。

土地を寄付してくれた人を荘官という役に付け、年貢の取り立てや、土地の管理をさせ自分は年々決まった額の米を受け取るだけでした。

 

また、自分の家に出入りしている身分の低い貴族を、預所という役に付け、荘園の世話を一切任せたりすることもありました。

 

こうして荘園を持つことができない貴族も預所となって、荘園からの収入の分け前にあずかることができました。

 

 

 

鎌倉時代の日本

 

 

鎌倉時代の民衆と言えば、ほとんどが荘園の中に住む農民でした。

荘園の中で、地頭やその他の武士は、多くの農民を支配し、年貢を取り立てたり、いろいろな雑用をやらせたりしていました。

 

荘園の農民のうち自分の土地を持つ地主を名主と呼びました。

彼らは農民ではありますが、戦の時は武器を取ってこれらの武士に従いました。

 

名主たちは自分で持っている田の一部は、自分で耕しましたが、残りは小作地として他の農民たちに耕させ、それから地代を取り立てました。

 

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農民たちは取れた米の3割から4割を年貢として荘園の支配者である武士に差し出しました。

多いときには五割または、それ以上の年貢を出しました。

年貢の他に武士の屋敷を作ったり、橋を掛けたり、荷物を運んだりとただ働きの仕事もしなければなりませんでした。

 

税として、コメの他にも、畑からは麦・粟・大豆などを産物として、漆・カキ・炭・薪・織物などを収めました。

 

重い年貢や、数々の労働は、みな小作人たちにかかってきました。

 

このような農民の暮らしは、大変苦しくその住まいは、多くが一間きりの土間であったようで、そこにむしろでもひいて暮らしていたものと思われます。

 

所従や下人に生活はもっとひどく、住まいは掘立小屋程度で、苧(からむし)と呼ぶ麻の着物を着て米ではなく、麦や雑穀を食べていました。

 

農業技術は、平安時代の終わりころから非常に進んできました。

田や畑を耕作するのに、牛や馬などの家畜を使ったり、鍬やすきを使ったりすることは、ずっと前から行われていましたが鎌倉時代には、農具がだんだん鋭いものになってきました。

 

 

また、今まで貴族・大社寺や豪族が、ほとんど独り占めにしていた農具や牛馬が次第に豊かな農民たちにまでいきわたるようになってきました。

 

二毛作が行われるようになったことは、日本の農業史の上で大きな出来事ですが、これは鎌倉時代に始まったといわれています。

 

まだ、耕されていない土地もたくさんありましたが、農業技術が進むにつれて、開墾も次第に行われてきました。

 

関東平野も、幕府の指図でその多くが開墾され田畑が増えました。

 

平安時代には、所によっては直播き(種もみを耕した田に直接まく)も行われましたが、鎌倉時代にはほとんど苗代が作られました。

 

苗代に種もみも蒔く前に、ある時間水につけておいて発芽させる方法も、平安時代に引き続いて

広く行われるようになりました。

 

農民にとって、田に水を絶やさないことも大きな心配でした。

9世紀の半ばころから水車の使用が盛んになり、鎌倉時代になると水車をつくる技術はかなり高いものになりました。

 

米では「うるち」と「もち」の区別、「わせ」と「おくて」の区別は平安時代からありましたが、鎌倉時代には「なかて」が広く作られるようになりました。

 

 

 

室町時代の日本

 

 

鎌倉時代から室町時代にかけて、農民たちは荘園の領主から重い年貢やきつい仕事を請け負わされたので生活もかなり苦しかったようです。

 

しかし、それにも関わらず農民たちは限られた土地から、多くの収穫を上げようとして技術を高める努力をしました。

 

その結果、農業は大変進歩し生産高が増えてきました。

 

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これと共に地方の国々でも様々な産業が発達してきました。

 

草削り、つるはし、熊手、苗かご、もっこ、とおしなど、農民たちはまず農具を改良しました。

 

灌漑設備として水車も作りました。

15世紀のはじめに日本へ来た朝鮮の使いは、日本の水車の便利さに驚いていたとされています。

 

 

肥料としては、人糞、家畜の糞、草・魚・海藻・灰などが使われていました。

 

 

 

大部分が水田になっていた土地利用ですが、稲も品質が改良され、わせ・なかて・おくては土地に合わせてうまく栽培されてきました。

 

土地の利用の仕方も進み、コメと麦、麦と蕎麦などのような組み合わせで二毛作が広まってきました。

 

畑には主に麦・大豆・小豆を作り、その他雑穀・野菜・ナタネ・ゴマ・茶なども作りました。

 

ことに、都の付近では、売ればすぐにお金になったため、瓜・大根・ナスのような野菜が良く作られました。

 

 

同じように綿・麻・漆などの手工業の原料もよく栽培されました。

綿は木綿に、漆は塗りものになったからです。

その他、桑の穂も、紙を作ったり蚕を飼うのに役に立つので栽培されました。

 

果物では甲州(山梨県)のブドウ、紀州(和歌山県三重県の一部)のミカンなどが出始めています。

 

また、茶を飲む習わしが広まるにつれて茶の栽培も盛んになってきました。

 

このように室町時代は作物の幅が広がった時代でもありました。

 

 

 

 

安土・桃山時代

 

 

 

封建制度の世の中で、一番大切な産業は農業です。

武士は農民が納める年貢米をお金に変えて暮らしを立てているので、封建制度をしっかりと作り上げるにはなるべくたくさんの年貢米を取り立てられるようにしなければなりません。

このために太閤検地という土地調べが行われました。

 

検地では、田畑の広さやそこから米がどれだけとれるか、また土地を持っている農民は誰かを、詳しく調べて帳面に書き付けます。これを検地帳といいました。

そしてこの帳面を元にして農民に年貢米や、両主のための力仕事なとが割り当てられました。

 

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この太閤検地にはメリットとデメリットがありました。

 

メリットとしては、その土地を耕している人がその土地の持ち主として認められることになったので、地主の土地を耕していた貧しい百姓たちも、自分の土地を持つことができました。

 

デメリットとしては、農民の納める年貢が取れ高の半分からそれ以上という高い割合になり、年貢が納められないと隣近所や村の人たち全体の連帯責任とされました。

 

 

これまで、身分のあまり高くない武士は、戦いのときの他は農村に住んで農業をしていました。

しかし、秀吉の行った検知や刀狩によってたとえ身分は低くても、武士は戦争だけをする、農民は農業にだけ精を出して年貢を納めるというふうに、身分がはっきり分かれるようになりました。

 

そして武士はすべて城下町に住むようになり、農民が勝手に土地を離れることを厳しく取り締まりました。

 

 

 

江戸時代の日本

 

江戸時代の村は、大体今の村の大字にあたり戸数も30戸か40戸くらいでした。

幕府も藩も、秀吉の時より一層厳しく検地をおこない、村の収穫高を決めて年貢を取るようにしましたので、村が政治を行うときの一番小さな単位になっていました。

 

村に住む農民にもいろいろな身分がありました。

年貢を納める責任を持つ農民を本百姓といい、農民の内では一番上の身分でした。

 

本百姓には、地主もおれば小さな自作農もいました。

 

本百姓の下には、名子・被官などという身分の低い農民がいて、地主から家来のように扱われていました。

 

また、時代が下るにつれて、水呑百姓も増えていきました。

水呑百姓というのは食べるものがなくて水だけしか飲めないような百姓ということです。

 

水呑百姓は一番下の貧しい農民だったので、自分の耕す土地ももてず、小作や日雇いで暮らしていました。

 

しかし、江戸時代も中ごろになると下っ端の農民の地位もだいぶ上がってきました。

それまで、地主の下で苦しんでいた貧しい農民たちが、だんだん一人前の農民になってきました。

土地を開いたりいろいろな副業をしたりして暮らしも楽になってきました。

 

 

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幕府も大名も農民を治めることに一番力を入れていました。

村を治める役人には郡代や代官がいましたが農民の中からも村役人が出て村を治めていました。

 

村役人には、今の村長にあたる庄屋や、組頭・百姓代もいました。

庄屋は、村の年貢を集めたり村の中や、他の村との問題などにはいつも村の代表となりました。

主に地主や古い家柄の人が領主から言いつけられて庄屋になりました。

 

江戸時代も後になると村中の農民選挙で、決まるところも出てきました。

幕府や大名は、年貢をきちんととったり犯罪を防ぐために、全国の街や村に五人組を作らせました。

大体、5件の家を一組にしてお互いに力を合わせたり、見張りをさせたりしました。

もし1件の家で、年貢を納めないと残りの4件が代わって納めさせられ、また悪いことをした家があると5件の共同の責任とされました。

 

 

家康は「村々の百姓どもが、死なないようにまた生きないように考えて年貢を取り立てるように」といいました。

農民たちに、やっと耕作ができるだけの暮らしをさせて、できるだけ、たくさんの年貢を取り立てるように心がけろ、といったのです。

 

年貢は、主に米で納める税で五公五民(とれた米のうち半分を年貢に納め半分を自分のものにすること)または、四公六民が普通でした。

しかし、中には八公二民という藩さえありました。

 

その上、よい米だけを納めさせたのです。

この他、山・野原・海・川などでとれたものにもいろいろな税がかかりました。

農民が副業で作った品物にもかかりました。

 

農民たちは年貢の他、いろいろな仕事を言いつけられました。

道路や川の堤を直したり領主のための人足に出されたりしました。

これらの仕事は、だんだんお金を代わりに納めるようになりましたが助郷だけは、そうはいきませんでした。

助郷とは、幕府や大名の荷物を運ぶために、街道の宿場では人足や馬をいつも備えておくのですが、だんだん荷物が増えてくるととても運びきれなかったので、近くの村から助けの人足や馬を出させたことをいいます。

しかし、この助郷は賃銭が安いうえに忙しいときでも、構わず呼び出されたので農民は非常に苦しみました。

 

幕府や大名は、農民から年貢をきちんと取り立てるためにいろいろな方法をとりました。

年貢を納める農民が耕地を離れて、隣の村にいったりしては困るので、これを禁止しました。

耕地の少ない農家が分家して土地をわけると、本家も分家も共倒れになるので、一町(約1ヘクタール)以下の農家が分家することを禁止しました。

 

「百姓は、麦・粟・ひえ・菜・大根などを作って食べ、米はできるだけ食べさせないようにせよ」

ということは米は年貢に取り立てるものであるから、百姓に節約させ、食べさせないようにするためです。

これらは慶安のお触書として、人々に知らされていました。

 

 

江戸時代の農民たちは、暮らしに必要なものはたいてい自分で作っていました。

そのために、水田をつくるための用水や薪をとったり、草を刈ったりする山林や野原などは、村中やいくつかの村で共同で利用していました。このような山林や野原を入会地といいます。

 

江戸時代の農民たちはそれぞれの耕地が狭いうえに、年貢が重いので収穫を多くするために、これまでよりもさらに激しい労働を繰り返さなければなりませんでした。

だから村の人たちは同士でも助け合わなければなりませんでした。

近い者同士が助け合う仕組みを「ゆい」といいます。

田植えや取り入れの時などに、ゆいの仲間が一軒一軒手伝うのです。

 

また、苦しい家計を助けあうためにお金を積み立てて使う講や無尽がたくさん作られました。

江戸時代も後になると農村にも、だんだんお金がいきわたるようになりましたが、初めころは、お金でものを買う事はありませんでした。

 

鉄で作った農具や塩・薬などどうしても自分で作れないようなもののほかは、町の人のようにお金を出して好きなものを手に入れることもなかなかできなかったのです。

 

年貢の割り当てや村の費用を決めるときなど、大事なことは寄合を開いて話し合いました。

しかし、その場合でも座る順序が決まっており、村役人や地主は一番上座に座り、その意見が大きな力を持っていました。

 

村の申し合わせに背いた村人は村から追い出されたり、村八分にされて村人から付き合いを断られたりしました。

村八分にされると、手伝いがないので葬式も出せなかったのです。

とにかく、村では農民が自分の家だけでは暮らしていけないようにできていたことがわかります。

 

 

このように、農民たちの暮らしは大変苦しく、また同じ仕事を繰り返しているので、毎日退屈でした。だから楽しいことがあれば思い切り楽しもうとしました。

村の楽しみで一番大きいのはやはり鎮守様の春秋2回のお祭りでした。

 

 

工業などは産物に比べてそれほど盛んではなかったので、農産物が産物の大部分を占めていました。そこで、将軍や大名たちも新しい田畑を開いて産物を多くしようとしました。

そして新しい田畑には3年間は税を掛けないとか税を軽くするなどして開墾を奨励していました。

また用水路を掘って多くの田に水がいきわたるようにしました。

 

 

田畑が増えて、多くの作物がとれるようになったほか、この時代には、新しい肥料が使われるようになりました。

江戸時代の初めころは灰や下肥えを使ったり草を漉き込んだりしていました。

やがて、鰯を干した干鰯や菜種から油を搾り取った後の油粕などを肥料として使うようになりました。

そのため同じ田畑から今までよりずっと多く取れるようになりました。

肥料が良く効いていると台風や寒さにも耐える力がありますから風害や例外も少なくすることができました。

 

このころ、イナゴなどの害虫の被害もたびたびありました。

その後、鯨の油を田に蒔いてイナゴの幼虫を殺すことが考え出されたので、虫害で死人が出るようなことはなくなりました。

 

 

江戸時代には新しい農具もたくさん作られていました。農具が便利になると仕事もはかどります。

稲を刈り取った後もみを取り、そのもみの殻を取ったのが玄米で、それをついて白米にします。

 

稲からもみを取るのが大変な仕事で江戸時代の初期まで「こきはし」という脱穀用具が使われていました。

 

長さ10.5尺~2尺の竹の棒二本を左手で垂直に立て、右手に持った稲の穂を二本の竹の間に挟んでこき下ろすものです。

 

17世紀の末、元禄の頃に「千歯こき」という道具が発明されてからこきはしは衰えました。

千歯こきが使われるようになって脱穀はずっとはかどりました。

千歯こきは、はじめ竹歯のものでしたが、後に鉄歯に変わり歯並びが前方に倒されるなどの改良が加えられ、大正のころ、足踏み式脱穀機ができるまで広く使われました。

 

もみをついたり、精米したりするにも、水車が用いられるようになりあちこちに水車小屋が見られるようになりました。

 

 

また、江戸時代には、新しい作物が多く作られるようになりました。

 

綿が広く作られ多くの人々が木綿の着物を着ました。

また色々な作物が外国から伝わり栽培されました。

 

かぼちゃはカンボジアから、ジャガタライモ(バレイショ)は、ジャカルタから伝えられたもので、間もなく全国で作られるようになりました。

 

さつまいもは、北九州で琉球いもといい薩摩では唐イモといいますが、これも琉球から伝わってきたものです。

さつまいもは、青木昆陽の力で栽培がすすめられやせ地でもできるし、日照りで米が取れない年などには大変助かりました。

 

 

江戸時代以前も、蚕を飼って糸を取り、絹を織ることは行われていましたが、まだそれほど盛んではなく、中国から生糸や絹織物を輸入していました。

江戸時代になると養蚕は非常に盛んになり、全国に広がっていきました。

慶長のこと養蚕・絹織物は東北地方を除いた22か国で行われていたのが200年後の19世紀の初めには東北地方を含む41か国に広がりました。

 

特に養蚕の盛んなのは信濃・上野・陸奥の南の地方でした。

 

 

江戸時代は農業に様々な技術や開発が加えられていた時代であったと言えるでしょう。

 

 

 

 

 

 

平安から江戸時代までの流れを見てきましたが、国のものであるはずの土地が有力な貴族によって私物化されていったり、その土地を耕している農民のものとされたりと大きな変遷がありました。

 

その他様々な技術の開発、新しい作物の栽培などが積極的に行われていたことが見て取れます。

 

 

室町時代に日本に来た朝鮮人が水車の技術に驚いたとされていますが、もともと東南アジアや中国など、大陸から伝わった稲と技術を日本人なりに工夫を重ねて自分たちの風土に合った作物づくりを行っていたことは注目に値すると考えられます。

 

 

次回は明治時代以降の日本について触れていきたいと思います。

 

 

 

新入社員がきました。

新しい年度を迎えました。

 

4月1日。

 

エイプリルフールです。

新入社員が入社したのはうそではありません。

 

LINEのトーク画面に桜が舞っているのがかわいらしい。

 

 

今日は新入社員の1日目。

 

納品を兼ねて雫石の松の実さんへ。

 

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雫石にも春の気配。

 

 

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松ぼっくりの松原社長のお気に入りでもある、マンサクの花も咲いていました。

 

カメラ持っていけばよかったな。

 

私自身は社会人3年目の年が始まりました。

 

新しく取り組むこともたくさんあるので、頑張っていきます。

農業の歴史 縄文~奈良時代

日本の農業の歴史にはかなり特徴的な部分があります。

 

 

露地での農業について語るときは、常にその土壌の由来について考えなければなりませんが、そういった点に関しては、まだ農業の現場ではメジャーな情報にはなっていません。

 

 

日本列島は、世界でもまれにみる複雑な土壌がまじりあった地形をしています。

 

火山灰土が積もった黒ボク土、そして粘土質以外にも、砂質、沖積土など、

様々なパターンの土壌があります。

 

 

こうした土壌は、それまでの長い年月をかけた歴史が積み重なってできていますが、

それぞれの土壌においてその特徴は異なります。

 

日本の環境では、温暖多湿という特徴があるため、雨がよく降ります。

この雨が降るというのが曲者で、この降雨によって土壌中のCa(カルシウム)を代表とする成分が雨水と一緒に溶脱して流れて行ってしまうのです。

 

雨が少ない欧米とは違い、この点が日本の土壌の代表的な特徴だと言えます。

なので、新たに外部から投入しなければ、失われた養分を補充することができません。

 

苦土石灰や堆肥などを入れることが、土壌改良という作業に当たります。

 

つまり日本の土壌は、何もないむき出しの状態で、通常では養分が足りない土なのです。

 

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縄文時代の日本

 

このころの人々はまだ農業や牧畜を知らなかったので、

獣や魚・貝・木の実などを獲って暮らしていました。

 

熊や猪、鹿などの大きな獲物を取るときは大勢で出かけていたといいます。

 

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弥生時代の日本

 

弥生時代の遺跡を見ると、青森県でも稲作りが行われていたという事がわかります。

 

米は大体中国南部から東南アジア、インドにかけての地域のどこかが原産地だといわれています。

 

 

本来温かい地域で育つ米を、青森という寒い地域で育てることができていたという事に、

当時の技術力の高さを感じます。

 

 

日本へ伝えられた米作りですが、作るには難しい技術や知識が必要です。

ただ稲が伝わってもすぐ、日本で上手く作られたとは思えません。

おそらく稲と共にかなりの人が日本に来て、その作り方を広めたと考えられます。

 

 

稲を作るには、種蒔きから取り入れまで同じ1つの土地を使います。

 

そのため、鳥や獣・魚などを獲って暮らしていたころのように、

獲物を追って住まいを移す必要はなくなり、1つの土地に長く住みつくようになりました。

 

また、稲を作るのは手数がかかるので、これまでよりも一層、

力を合わせて仕事をすることが必要になりました。

 

こうして人々は村を作り共同生活をするようになってきたのです。

 

 

米は蓄えることができたので、食べ物の心配はこれまでよりも

ずっと少なくなり、人々の生活にゆとりができました。

 

またコメの取れ高が多くなると、皆々がコメ作りに従う必要がなくなってきたので、

土器づくりを専門にする人、農具づくりを専門にする人などが現れてきました。

 

そのため、よい道具ができるようになり、コメの取れ高は一層増えて、

人々の生活はますます豊かになっていきました。

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大和時代の日本

 

大和の社会では支配するものと支配されるものとの違いがはっきりしていました。

 

普通の農民たちは、天皇や豪族たちにしたがってその下で働いており、

政治に口を出すことなどはとてもできませんでした。

 

豪族や皇室はたくさんの田畑を持っていました。

 

その中で皇室が持っていた田畑を屯倉(みやけ)といいます。

 

皇室の田畑なので、作物の良くできる豊かな土地に置かれ、朝廷が地方を治めるための

よりどころにもなりました。

 

大和の国の勢いが盛んになってくると屯倉も各地にたくさん置かれるようになり、関東地方から九州地方にまでも広がりました。

 

屯倉が広がるにつれて、地方を治めるための政治の仕組みも次第に整えられていき、

大和の国は地方の小さな国々を次々に従えて大きな国になったものです。

 

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村人たちが協力し合って生活していた時代から、支配するものとされるものに分かれる

階級制の時代へと変わってきました。

 

その中でも「食」という部分が重要な位置を占めていたことには変わりありません。

 

 

如何に多くの食物を生産し、確保できるか、それはいつの時代においても

大切なこととされていたでしょう。

 

 

飛鳥時代の日本

 

 

 

飛鳥時代の日本は律令による政治が行われていました。

 

地方は、近江とか出雲のような国に分けられ、国の中には郡、郡の中には里が置かれました。

 

国々には、国衙(こくが)という役所がおかれ、国衙のあるところを国府と呼びました。

 

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人々は、すべて良民と賤民に分けられていました。

良民というのは普通の農民以上のもの全部の事で、全人口の約90%は良民だったと考えられています。

残りの10%ばかりが賤民になります。

賤民は、身分が低く一人前の人間として扱ってもらえない哀れな人々でした。

そして、良民と賤民の結婚は、認められませんでした。

 

また、良民と賤民の間に当たるものとして、品部(ともべ)・雑戸(ぞうこ)などがありました。

 

このように、律令の仕組みの中では、身分によって法律上の取り扱いが全く不公平で、

そこが今日と大きく違うところです。

 

農業においては全国の土地がすべて国のものとされていました。

 

6歳以上の農民に土地を与え耕させていました。

 

そのため6年に一度戸籍を作り直し、男には二段(約15アール)、女にはその三分の二の口分田という田を与えました。

 

この土地は人毎に与えられているものであり、その人が亡くなると土地は国に返還されます。

 

この仕組みを班田収授法と呼びます。

 

 

 

 

奈良時代の日本

 

 

飛鳥時代に、大化の改新で決められた班田収授法によって、田は人民に平等に分けられました。

しかし、貴族や大きな寺や神社には、普通の人よりも、はるかに多くの田が与えられました。

 

また、祖・庸・調などで集まった税の中から、多くのコメや布が、貴族や寺に与えられたりで、

貴族たちの生活は次第に派手になりました。

 

朝廷は、都を作ったり大きな寺を建てたり、東北地方の蝦夷や、南九州のハヤトを征伐したりしたため、多くの費用がいるようになってきました。

 

政府は税をもっと多くとるようにしなければならないと考えましたが、人口が増えて口分田が足りなくなりました。

 

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三世一身の法を制定し、新しく溝を掘り水を引いた場合は孫の代まで土地の使用を認め、荒れている池や用水路を直したものは、その一代だけ土地の使用を認めることにしましたが、田の開墾には多くの費用と人手がいるうえ苦労して開墾しても法解の決まりで朝廷に取り上げられてしまうため、田をなかなか開墾しようとしませんでした。

 

 

その後朝廷は、自分の開墾した田は、いつまでも自分のものにしてよいという墾田永年私財法を制定します。

 

 

 

開墾は非常に盛んになりましたが、開墾できる人は開墾に必要な費用、人手などをたくさん持っている貴族や大きな寺などに限られました。

 

また、地方でも有力な豪族の中には、どんどん田を開いて自分のものとし、一層、富み栄える人が増えてきました。

 

 

こうして、貴族や大きな寺は、財力に任せて開墾し、どんどん私有地を広げていきました。

 

これらの私有地が荘園の起こりです。

大きな寺の中には、何千町歩もの荘園をもつものもあらわれました。

 

普通の農民たちは、豪族や寺や神社の田を借りて耕し、暮らしの足しにしなければなりませんでした。

 

今回は縄文から奈良時代までの農業の歴史を見てきました。

 

植物や獣、魚や貝などを獲っていた時代から、作物を育てる時代へ。

 

権力者が現れ、作物を育てる者と納めさせる者へ。

 

そして、田の私物化。

 

時代によって、農業を取り巻く環境が大きく変化してきたことが見て取れます。

 

次回は平安時代の農業から見ていきます。